フランシスコ・デ・アシース・デ・ボルボーン
フランシスコ・デ・アシス・デ・ボルボン Francisco de Asís de Borbón | |
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スペイン王配 | |
カディス公フランシスコ | |
在位 | 1846年10月10日 - 1868年9月30日 |
別称号 | スペイン国王[1] カディス公爵 |
全名 | Francisco de Asís María Fernando フランシスコ・デ・アシス・マリーア・フェルナンド |
出生 | (1822-03-13) 1822年3月13日 スペイン王国、アランフエス |
死去 | (1902-04-17) 1902年4月17日(80歳没) フランス共和国、エピネー=シュル=セーヌ |
埋葬 | スペイン王国、サン・ロレンソ・デ・エル・エスコリアル、エル・エスコリアル修道院 |
配偶者 | イサベル2世 |
子女 | 一覧参照
|
家名 | ボルボン家 |
父親 | フランシスコ・デ・パウラ・デ・ボルボン |
母親 | ルイサ・カルロータ・デ・ボルボン=ドス・シシリアス |
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フランシスコ・デ・アシス・マリーア・フェルナンド・デ・ボルボン・イ・ボルボン=ドス・シシリアス(スペイン語: Francisco de Asís María Fernando de Borbón y Borbón-Dos Sicilias、1822年3月13日 - 1902年4月17日)は、スペイン女王イサベル2世の王配(スペイン国王)。カディス公。
生涯
カディス公フランシスコ・デ・パウラ(カルロス4世の末子、フェルナンド7世とモリナ伯カルロスの弟)とルイサ・カルロータ(両シチリア王フランチェスコ1世の長女)の次男(ただし、兄フランシスコはフランシスコ・デ・アシスの誕生前に生後1年半で夭逝しているので、実質的には長男である)。
名前の「フランシスコ・デ・アシス」はスペイン語で聖人アッシジのフランチェスコを意味する(父の名はパオラのフランチェスコにちなむ)。
1846年に父方でも母方でも従妹にあたる女王イサベル2世の配偶者(王配)となった。
2人の間には12人の子供が生まれたが、成人したのは4人である。
- イサベル(1851–1931) - 両シチリア王子ガエターノと結婚
- アルフォンソ12世(1857–1885)
- マリア・デ・ラ・パス(1862–1946) - 従兄のバイエルン王子ルートヴィヒ・フェルディナントと結婚
- エウラリア・デ・アシス・デ・ラ・ピエダ(1864–1958) - 従弟のガリエラ公アントニオと結婚
ただし、フランシスコ・デ・アシスは同性愛者もしくは性機能障害だったとの説があり、これらの子がいずれも実子であったかは疑問視されている。また父フランシスコ・デ・パウラもカルロス4世の実子でない可能性があり、どちらかが子供の実父でなかった場合、ボルボン家は男系では血統が入れ替わっていることになる。
脚注
スペイン正配(王妃・王配) | |
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アブスブルゴ朝 | イサベル・デ・ポルトゥガル・イ・アラゴン / マリア・デ・イングラテラ / イサベル・デ・バロイス / アナ・デ・アウストリア / マルガリータ・デ・アウストリア / イサベル・デ・ボルボン / マリアナ・デ・アウストリア / マリア・ルイサ・デ・オルレアンス / マリア・アナ・デ・ネオブルゴ |
ボルボン朝 | |
ボナパルテ朝 | マリア・フリア・クラリー 1808-1813 |
ボルボン朝 | マリア・イサベル・デ・ブラガンサ / マリア・ホセファ・デ・サホニア / マリア・クリスティーナ・デ・ボルボン / フランシスコ・デ・アシス・デ・ボルボン |
サボヤ朝 | マリア・ビクトリア・ダル・ポッソ・デッラ・システルナ 1870-1873 |
第一共和政 1873-1874 | |
ボルボン朝 | マリア・デ・ラス・メルセデス・デ・オルレアンス 1874-1885 / マリア・クリスティーナ・デ・アブスブルゴ=ロレーナ / ビクトリア・エウヘニア・デ・バッテンベルグ |
第二共和政 1931-1939 | |
フランコ体制 1939-1975 | |
ボルボン朝 | ソフィア・デ・グレシア 1975-2014 / レティシア・オルティス 2014-現在 |
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