マルガレータ・ア・ロムニエイ

マルガレータ
Margareta
ルーマニア王冠の守護者
Custode al Coroanei României
2017年
在位 2017年12月5日 -
別号 ルーマニア女王(2017年12月5日 - )

出生 (1949-03-26) 1949年3月26日(75歳)
スイスの旗 スイスヴォー州ローザンヌ
配偶者 ラドゥ・ドゥダ(英語版)
家名 ルーマニア王室(ルーマニア語版)
王室歌 国王万歳
父親 ミハイ1世
母親 アンヌ・アントワネット・ド・ブルボン=パルム
宗教 ルーマニア正教会
サイン
テンプレートを表示
称号:ルーマニア王冠の守護者
敬称 陛下
Custode al Coroanei României

マルガレータ・ア・ロムニエイルーマニア語: Margareta a României, 1949年3月26日 - )は、最後のルーマニア国王ミハイ1世の長女で、現在のルーマニア王室(ルーマニア語版)の家長。かつてはマルガレータ・ホーエンツォレルン=ジグマリンゲンルーマニア語: Margareta Hohenzollern-Sigmaringen[1]を名乗っていた。

長年「ルーマニア王女殿下」あるいは「ルーマニア王太子殿下」の儀礼称号を用いていたが、父ミハイ1世の引退を機に「ルーマニア王冠の守護者ルーマニア語: Custode al Coroanei României)」の称号を、父の崩御後さらに「陛下」の敬称を用い、ルーマニア社会では広範に受け入れられている。

ルーマニア赤十字社(英語版)総裁(2015年 - )。

来歴

マルガレータ王女のロイヤルモノグラム

ルーマニア国王ミハイ1世とその妻アナの間の長女(第1子)としてローザンヌで生まれた。父は1947年に祖国を追われており、4人の妹たちと一緒に両親の亡命先であるスイスイギリスで育った。エディンバラ大学政治学自然科学を学んだ。大学時代、後にイギリスの首相となるゴードン・ブラウンと交際していたこともある[2]

大学卒業後はイギリスの各大学で社会学の教員として働いたり、世界保健機関(WHO)と提携する国際調査研究センターで働いた。1983年にはローマに移って国際連合食糧農業機関(FAO)で、1986年からは国際農業開発基金(IFAD)で働いた。1989年に国連職員としてのキャリアを辞してジュネーヴに移り、父が主導するルーマニア義捐金(Charity for Romania)の活動に参加した。

1990年2月、ブカレストアンリ・コアンダ国際空港において、ルーマニアの教会関係の文化財を手荷物の中に忍ばせて国外に持ち出そうとしたとして、出国を阻止された[3]。2004年、経済面の主な後援者であるBAEシステムズからの違法な献金疑惑がかけられた。マルガレータは同社の軍事兵器をルーマニア政府に斡旋する見返りとして、700万ドルを受け取ったとされている[4][5]

「ルーマニア王太子」

カタール首長ハマド・ビン・ハリーファ・アール=サーニーと会見するマルガレータ夫妻(2009年10月13日)
スウェーデン王太子ヴィクトリアの婚儀に参列(2010年6月18日)

父ミハイ1世には男子がなく、その没後はルーマニア王家の本家筋にあたるホーエンツォレルン=ジグマリンゲン侯家(英語版)の家長であるフリードリヒ・ヴィルヘルムにルーマニア王位請求権が移ることになっていた。しかし2007年12月30日の「ルーマニア王室基本家憲(ルーマニア語版)」の改定によって、マルガレータはミハイ1世の推定相続人となり、以降「ルーマニア王太子Principesa Moștenitoare a României)」を名乗るようになった。

2011年、ホーエンツォレルン=ジグマリンゲン家との絶縁に伴い、ホーエンツォレルン侯女の称号を放棄した。

2015年、ルーマニア赤十字社(英語版)総裁に就任した。

「ルーマニア王冠の守護者」

ルーマニア王権の象徴「鋼の王冠(英語版)

2016年3月2日、父ミハイ1世が病気療養のために引退すると、マルガレータは新たに「ルーマニア王冠の守護者(Custode al Coroanei României)」の称号を名乗るようになった。

2017年12月5日、父ミハイ1世が崩御。同月11日からルーマニア王室は「王室基本家憲」に従ってマルガレータに対して「陛下」の敬称を用い始めた。2007年の王室基本家憲によると、王室当主は「王(女王)」を称号とし、その敬称は「陛下」で、別の称号を用いることもできると定められている。そのため、マルガレータの正式な称号は「ルーマニア女王」であると解釈できる。

2019年6月、ルーマニア赤十字社総裁に再任された[6]

家族

夫ラドゥと共に(2009年4月10日、エリサベータ宮殿(ルーマニア語版)

1996年9月21日、ローザンヌにおいて11歳年下のルーマニア人実業家ラドゥ・ドゥダ(英語版)と結婚した。ラドゥは1997年1月1日にホーエンツォレルン侯家家長フリードリヒ・ヴィルヘルムより「ホーエンツォレルン=フェリンゲン侯子(Prinz von Hohenzollern-Veringen)」の称号を、2005年12月30日に義父ミハイ1世より「ルーマニア王子(Principe al României)」の称号を名乗ることを認められた。

夫との間に子供がないため、すぐ下の妹エレナ(英語版)の娘エリザベータ・カリーナ・メドフォース=ミルズ(Elisabeta Karina Medforth-Mills, 1989年 - )が次世代の後継者になるとみられている。

脚注

  1. ^ Alan John Day, Roger East, Richard Thomas: A political and economic dictionary of Eastern Europe. Cambridge International Reference on Current Affairs (Circa) Ltd, Cambridge 2002, First Edition, ISBN 1-85743-063-8, S. 477. (Ausschnitt auf Google Books.)
  2. ^ “Gordon Brown profiled” (英語). The Guardian. (2001年3月6日). http://www.guardian.co.uk/budget2001/story/0,,447338,00.html 
  3. ^ “Zeitungsartikel aus der französischen Ausgabe der”. l'Humanité. http://www.humanite.fr/1990-02-08_Articles_-Charite-desordonnee 
  4. ^ “Bribery inquiry may force £7m refund to Romania” (英語). The Guardian. (2006年6月15日). http://www.guardian.co.uk/armstrade/story/0,,1797639,00.html 
  5. ^ “Principele Duda, coleg la Colegiul de Apărare cu semnatarul contractului cu BAE”. gardianul.ro. http://www.gardianul.ro/2006/06/17/dezvaluiri-c11/principele_duda_coleg_la_colegiul_de_aparare_cu_semnatarul_contractului_cu_bae-s80510.html 
  6. ^ “Dacă nu-i în fruntea țării, măcar în fruntea Crucii Roșii. Majestatea Sa Margareta, realeasă președintă”. Agerpres(英語版). (2019年6月16日). https://www.national.ro/news/daca-nu-i-in-fruntea-tarii-macar-in-fruntea-crucii-rosii-majestatea-sa-margareta-realeasa-presedinta-659890.html/ 2019年9月9日閲覧。 

参考文献

  • Michael Kroner. Die Hohenzollern als Könige von Rumänien. Lebensbilder von vier Monarchen 1866–2004. Heilbronn 2004: Johannis Reeg Verlag. ISBN 3-937320-30-X 

外部リンク

ウィキメディア・コモンズには、ルーマニア王女マルガレータに関連するカテゴリがあります。
  • Website von Radu Duda (rumänisch und englisch)
  • 表示
  • 編集
スタブアイコン

この項目は、王室王族に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:歴史/P:人物伝/PJ:歴史/PJ:人物伝)。

  • 表示
  • 編集
典拠管理データベース ウィキデータを編集
全般
  • FAST
  • ISNI
  • VIAF
    • 2
国立図書館
  • ドイツ
  • アメリカ