鈴木規夫

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 鈴木 規夫 
Norio SUZUKI
基本情報
名前 鈴木 規夫
生年月日 (1951-10-12) 1951年10月12日(72歳)
身長 171 cm (5 ft 7 in)
体重 68 kg (150 lb)
出身地 香川県坂出市
経歴
成績
優勝回数 日本ツアー:16回
2009年7月22日現在
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鈴木 規夫(すずき のりお、1951年10月12日 - )は、香川県坂出市出身のプロゴルファー2015年8月1日よりカバヤ・オハヨーグループ所属。

略歴

幼少期より近所のゴルフ場を遊び場として、芝生やラフの上を走り回っていたが、高松カントリー倶楽部戸田藤一郎のパンチショットを見てゴルフを覚える。幼い日の鈴木は心躍らせながら戸田のプレーぶりを見つめ[1]、12番、13番、17番、18番の4ホールしか見られなかったが、毎回その姿を追いかけていた[1]。小学1年生になった頃には戸田が心のヒーローになっていたが、当時の鈴木には「ゴルフがうまい、ただのオッチャン」という認識しかなかった[1]

8歳の時に父から中古の大人用クラブを与えられると、中学進学と同時にキャディのバイトを始める。中学卒業後は高松カントリー倶楽部ヘッドプロの増田光彦に弟子入りし[2]坂出高校定時制に入学。高校を卒業して研修会に入り、1972年に21歳でプロテストに合格。

1973年1月に増田の縁で、大分県別府市の城島高原カントリー倶楽部を整備中であった会社「西日本レジャー開発」に入社[3] [4]。四国から別府に拠点を移すと[3]、同年の「ミズノプロ新人」で初優勝を飾って頭角を現す。歯切れのよいショットと攻撃的な試合運びを身上とし、"九州の若鷹"という異名をとった。

1974年から1978年まで地元の九州オープンでは前人未到の5連覇[3]という記録を残し、1975年くずは国際トーナメントではテッド・ボール(オーストラリアの旗 オーストラリア)に7アンダー差を付けて優勝[5] [6]

1976年フジサンケイクラシックではベテラン呂良煥中華民国の旗 中華民国)と共に9アンダーでサドンデスのプレーオフとなり、3回り目の17番ショートでは呂がグリーン右に大きく外しボギー。1オンの鈴木が5ホール目で呂の連覇を阻み、鈴木は外人勢4連覇を止めて日本勢初制覇をもたらす[7]

同年にはピーター・トムソン(オーストラリア)から挑戦を勧められて全英オープン出場を決意し、6月下旬にイギリスへ渡る[8]

最初にR&Aから正式に招待状を受け取ったのは前年度の日本オープン覇者の村上隆であったが、村上は出場を断った[9]。それを聞いて「なんというもったいないことをするのだろう」と思った鈴木にトムソンが「なら、君がジ・オープンに出場してみてはどうかな。月曜日の予選会から出なくてはならないが、パープレーで回れば予選会は通過できるし、君なら軽いもんだと思うけどね」と囁き、それを聞いた鈴木は「2日間のマンデーをパープレーで回れば本選に出場できるのか。それなら問題ないな」と気負いもなく思った[10]

渡英後に5会場で実施された予選会のうち、ウエストランカシャーでプレーした鈴木は見事2位で出場権を掴み取り、ロイヤルバークデールで行われた本戦では同コースで2度勝っているトムソンに練習ラウンドで攻略法をしっかり教わっていたため、初日から結果を出す[8]。風が比較的弱い早い時間にスタートすると、パー34のアウトを1バーディー、2ボギーで折り返し、パー38のインで爆発[8]。11、12番でバーディーを奪うと、15番からは3連続バーディーの快進撃[8]。18番パー5は1打目をバンカーに入れてボギーとしたが、初めてのメジャーで3アンダー、69の好スコアをマーク[8]。初日にセベ・バレステロススペインの旗 スペイン)、クリスティ・オコーナー・ジュニア(アイルランドの旗 アイルランド)と並ぶ首位で、日本人プレーヤーとしては史上初めて首位に立った[8]。午後スタートで強風の中でのプレーとなった2日目は75と苦戦を強いられて6打差8位に後退し、3日目も75で8打差11位となった[8]。最終日もアウトでは思うようなゴルフができず、2つボギーを叩いて2オーバーの36であったが、気持ちは折れていなかった[8]。12番パー3でこの日初バーディーを決めると13番パー5では2オンしてバーディー、17、18番のパー5でも2オンでバーディーを奪い、インは4アンダーの34をマーク[8]。最終日は70で4日間通算1オーバー、289は堂々10位に食い込む見事なスコアであった[8]。メジャーにおける日本男子選手のトップ10入りは1973年マスターズ8位の尾崎将司以来2人目で、その快挙をメジャー初出場でやってのけた[8]

地元のファンは日本から単身やってきた無名の若者の歯切れのよいショットに瞠目し、驚嘆し、最後には惜しみのない拍手を送った[11]。イギリスの新聞では、日本の誇る有名なバイクのメーカーとスズキの名前が同じであることを書いたほか、「この青年はニッポンでプロになってまだ3年半の経験しかなく、身長は5フィート・7インチ(171㎝)、体重も145ポンド(65㎏)と軽いのに、ドライバーショットは265ヤードも飛ばし、アイアンから繰り出されるボールは自由自在であった」 と書き立てた[11]

日本のスズキとはオートバイだけじゃない」と地元のファンを唸らせたほか、さらに“日本人は当分勝てない”といわれた東芝太平洋マスターズ1979年1980年と2連覇[12]。1979年はロッド・カール、ビル・ロジャース、トム・ワトソンアメリカ勢を破り、1980年は尾崎将司をプレーオフで下した[3]

1979年はワトソン、ロジャースにリー・トレビノ、ジーン・リトラー、ギル・モーガンが出場し「米ツアーがそのまま輸入された」と称されたほどの豪華な顔ぶれに割って入り、3日目を終えた時点で鈴木とロジャースが通算7アンダーで首位タイに並ぶ[2]。ロジャースは鈴木と誕生日が僅か1ヶ月違いの同年代であったが、170cm、68kgの鈴木に対し、ロジャースは183cm、66kgの長身で、体格差は歴然としていた[2]。それでもこの週、好調な鈴木はアプローチにほとんど全てのクラブを使用し、状況に応じて変えて見事に決まる[2]。勝負のかかった最終日は生憎の雨で一気に寒くなり、気温は12度に下がり、選手達はタートルネックカシミヤセーターを重ねてもなお、寒さに震えながらのプレーとなる[2]。試合は最終組の鈴木・ロジャースによるマッチレースの様相を呈していき、4番パー3(177ヤード)で鈴木が12mのロングパットを決めてバーディとなるが、8番、9番と連続ボギーで37[2]。ロジャースも2ボギーの38とスコアを落とし、勝負は一進一退の状況でサンデーバックナインへと突入[2]。前の組にはワトソンとカールで緊迫感が増してくるが、鈴木は勝負に出る[2]。寒さに耐えながら固唾を飲んで激闘を見守る7291人の前で、10番1.5m、12番では10mのロングパットを1発で沈めて8アンダーとし、一気にロジャースとの差を3打まで広げた[2]。残るは上がり3ホールで、試合が終盤にさしかかる頃、富士山を覆っていたがコースに降りてきたため視界は一気に悪くなり、最終組が16番パー4のティーショットを打ったところで中断のサイレンが鳴る[2]。この時が午後3時で、鈴木はロジャースとの3打差をキープしていたが、前の組のワトソンが猛追を開始[2]。17番で2mに付けてバーディを奪いロジャースと並び5アンダーとなったところでプレーを止められ、ワトソンはギャラリーの立場に立って「中断するべきではない」と猛抗議に出ていた[2]。鈴木とロジャースは優勝の行方を大きく左右する16番のセカンドショットに待ったをかけられたまま、実に1時間15分も待たされることになったが、周りには休む場所もなく、ケヤキのところで立ったまま待つしかなかった[2]。左のバンカーの手前にいたファンやコース関係者の人達がチョコレートを貰うなどサポートを受け、サイレンがコースに響き渡りようやく再開となった時、鈴木には残り180ヤードの第2打が残っていた[2]。体は冷え切っていたが、スムーズに動き、軽いフェードの軌道を描きながら3.5mのバーディチャンスにピタリとついた[2]。このホールは2人ともパーで、最終18番のパー5でティイングエリアに8アンダーの鈴木が上がった時、ワトソンが2ホールを連続バーディで終え、6アンダーの2位でホールアウト[2]。一緒に回る3位のロジャースとは3打差があり、鈴木はこのティショットでフェアウェイをキープ[2]。残り230ヤードを3番ウッドで打ち、奥のバンカーに捕まったが、難なくこのショット寄せ、2パットのパーとし、ワトソンとこのホールでバーディを奪ったロジャースに2打差をつけて優勝を飾った[2]

1978年にはワールドカップ日本代表に初選出され、団体でペアを組んだ内田繁と共に夫人をハワイに連れて、夫婦同伴で試合した[13]。試合ではジョン・マハフィー&アンディ・ノース(アメリカ)、ウェイン・グラディ&グレッグ・ノーマン(オーストラリア)、デイブ・バー&ダン・ホールドソン(カナダの旗 カナダ)、ハワード・クラーク&マーク・ジェームス(イングランドの旗 イングランド)、ケン・ブラウン&サム・トーランス(スコットランドの旗 スコットランド)、アントニオ・ガリド&マニュエル・ピネロ(スペイン)、ルディ・ラヴァレス&エレウテリオ・ニバル(フィリピンの旗 フィリピン)に次ぎ、クリスティ・オコーナー・ジュニア&エディ・ポランド(アイルランド)、エルネスト・ペレス・アコスタ&ビクター・レガラド(メキシコの旗 メキシコ)、ハン・チャンサン&キム・サクボン(大韓民国の旗 韓国)、謝永郁&許勝三(中華民国)、クレイグ・デフォイ&デビッド・ヴォーン(ウェールズの旗 ウェールズ)と並ぶ8位タイと健闘。

1980年のペプシウィルソントーナメントでは全米オープン2位から凱旋帰国した青木功[3]やグラハム・マーシュ(オーストラリアの旗 オーストラリア)、謝敏男(中華民国)との争いを最終日で逃げ切り、“ジャイアントキラー”ぶりを発揮[3]して優勝賞金500万円を手にした[14]。同年には2年ぶりにワールドカップ日本代表に選出され、9年ぶりに選出された安田春雄とペアを組んだが、団体・個人共にトップ10入りは果たせなかった。

1981年にはマスターズに出場し[4] [12]オーストラリアン・マスターズではテリー・ゲールと並んでノーマンの2位タイ[15]に入る。

1982年全日空札幌オープンでは初日46位から2日目に1イーグル、8バーディー、1ボギーの63とコース新をマーク、通算7アンダ―137で一気に首位に躍り出た[16]。3日目には快晴、微風の好コンディションの中、前日のコース新63に気を良くして1イーグル、2バーディー、1ボギーの69でまとめ、通算10アンダーの206とスコアを伸ばして首位を守った[17]。最終日は1打差でスタートすると、羽川豊に一時は逆転され2打差を付けられるも、我慢のゴルフに徹して通算10アンダーで逃げ切る。青木の猛追も1打差で振り切り、プロ通算19勝、九州オープンに続いて同年2勝目を挙げた[18]

1983年5月には急性肝炎で倒れて1ヶ月近く入院し、6月末から戦線に復帰したが、8年続けたシード権を失った[12]1984年は2試合目のくずは国際を66・67のスコアで幸先よく優勝[5] [19]したが、その後は体をかばうスイングになってパットにも影響し、まるで噛み合わないゴルフが続く[12]。ペプシ宇部、九州オープン、全日空札幌と3度ベスト10入りしただけで、秋は11試合で半分以上の6試合が予選落ち[12]。最終戦まで持ち込んで、なんとかギリギリの39位に飛び込むことが出来た[12]

1987年10月2日東海クラシック2日目で、記録の残る1985年以降日本男子ツアー最多となる122打を記録しているが、これは9番ホールの欄にインの合計スコア(42)を誤記したことが原因である。

現役引退後は社団法人日本ゴルフツアー機構(JGTO)の理事としてツアー運営にあたり、ザ・ロイヤル、大洗、よみうり、JFE瀬戸内海、日清都、那覇など全国でコース監修を務める[20]。テレビ解説、講演、アマチュア及びプロ育成の指導にあたる。

一般社団法人「日本高等学校・中学校ゴルフ連盟」、大分県ゴルフ協会国体強化部の両ヘッドコーチの立場で若手のレッスンに心血を注いでいる[4]

2024年1月23日、2023年度で制定50回目を迎える九州・沖縄のゴルファーで顕著な活躍をした選手に贈られるグリーンハット賞で特別賞に選ばれる[20]。第1回(1974年度)から3年連続プロ部門で選出されるなど通算6度と歴代最多の受賞を誇る[20]

優勝歴

脚注

[脚注の使い方]
  1. ^ a b c あの頃ボクは若かった 昭和の履歴書 vol.37 -鈴木規夫-【パーゴルフ+plus】
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r 75分の中断後に見えたスキ “九州の若鷹”がマッチ世界王者に引導を渡した5番アイアン【名勝負ものがたり】
  3. ^ a b c d e f 鈴木規夫 プロゴルファー生活50周年を祝う集い「Jr育成とコース監修を通し恩返しを続けていきたい」
  4. ^ a b c ゴルフの鈴木規夫プロ、デビュー50周年 別府市拠点に後進の育成に力
  5. ^ a b ゴルフ場開場 History - 公式ホームページ | くずはゴルフリンクス
  6. ^ McCormack, Mark (1976). The World of Professional Golf 1976. Collins. pp. 290, 477. ISBN 000211996X 
  7. ^ 歴代優勝者(1970年代)| フジサンケイクラシック
  8. ^ a b c d e f g h i j k 【日本男子の海外挑戦記・昭和編33】メジャー初挑戦の鈴木規夫が全英オープン初日首位の快挙
  9. ^ 高橋三千綱『あの一打 勝負を決めたあの一打は、まるで人生のように熱く、激しく、重かった』日本ヴォーグ社、1997年6月1日、ISBN 4529029212、p71-72。
  10. ^ 『あの一打 勝負を決めたあの一打は、まるで人生のように熱く、激しく、重かった』、p72。
  11. ^ a b 『あの一打 勝負を決めたあの一打は、まるで人生のように熱く、激しく、重かった』、p71。
  12. ^ a b c d e f 鈴木 規夫選手 プロフィール - 日本ゴルフツアー機構 - The Official Site of JAPAN GOLF TOUR
  13. ^ 日本プロゴルフ界のレジェンド8人が語る、技と心
  14. ^ History 宇部72㏄の歴史
  15. ^ “Australian Masters: Norman beats 'hoodoo'”. The Canberra Times: p. 16. (1981年3月2日). http://nla.gov.au/nla.news-article126825258 2020年10月27日閲覧。 
  16. ^ 朝日新聞縮刷版p695 昭和57年9月18日朝刊17面「鈴木、一気に首位 全日空札幌ゴルフ
  17. ^ 朝日新聞縮刷版p735 昭和57年9月19日朝刊17面「鈴木10アンダー、首位を守る 1差で追う矢部と羽川 全日空札幌ゴルフ
  18. ^ 大会の歴史 | 第47回 ANAオープンゴルフトーナメント
  19. ^ McCormack, Mark (1985). Ebel World of Professional Golf 1985. Springwood Books. pp. 223, 445–446. ISBN 0862541247 
  20. ^ a b c “鈴木規夫 通算6度の受賞に「感無量です」 第50回グリーンハット賞 - スポニチ Sponichi Annex スポーツ”. スポニチ Sponichi Annex. 2024年1月28日閲覧。

外部リンク

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