頭曼単于

頭曼 単于(とうまん ぜんう、拼音:Tóumàn Chányú ? - 紀元前209年)は、中国代の匈奴単于。史書に初めて名前が出た単于。冒頓単于の父。本名は攣鞮 頭曼(れんてい とうばん)という。

生涯

北方では東胡月氏が強力であった時代、単于頭曼は秦に勝てず北方に移動した。十年余りが過ぎ、秦の将軍蒙恬が死に、諸侯は秦朝に叛き、中国は動乱の巷と化し、秦が遠方の地に出した流刑兵はみな還り去った。圧迫が取り除かれた匈奴はふたたび黄河を渡ってその南の地域に入りこみ、古い長城で中国と国境を接した。

頭曼の太子は名を冒頓といったが、のちに頭曼の寵愛する閼氏(えんし:単于の妻)が末子を生んだので、頭曼は冒頓を廃してその末子を太子に立てたいと考え、冒頓を月氏へ人質として送った。冒頓が人質となった後、頭曼は突然月氏を攻撃した。月氏は激怒し冒頓を殺そうとしたが、冒頓は馬を盗んでなんとか逃げかえった。頭曼は彼の勇気に感心し、一万の騎兵を統率させた。

冒頓はその一万の騎兵からさらに自分の命令に忠実な者だけを選出し、頭曼と狩猟に出かけた際、冒頓の指示で一斉に頭曼を射殺させた。これにより冒頓が単于となり、近隣諸国を併合し、匈奴の大帝国を築くこととなる。

参考資料

  • 史記』(匈奴列伝)
匈奴の初代単于(???? - 前209年)
統一時代

頭曼単于?-前209 / 冒頓単于前209-前174 / 老上単于前174-前161 / 軍臣単于前161-前127 / 伊稚斜単于前127-前114 / 右谷蠡王単于前119 / 烏維単于前114-前105 / 児単于前105-前102 / 呴犁湖単于前102 / 且鞮侯単于前102-前96 / 狐鹿姑単于前96-前85 / 壺衍鞮単于前85-前68 / 虚閭権渠単于前68-前60 / 握衍朐鞮単于前60-前58

分裂時代
東匈奴

呼韓邪単于前58-前31

西匈奴

郅支単于前56-前36

対立単于

屠耆単于前58-前56 / 呼掲単于前57 / 車犁単于前57-前56 / 烏藉単于前57 / 烏藉単于(重祚)前56 / 閏振単于前56-前54 / 伊利目単于前49

再統一時代
王莽が冊立した単于

孝単于11-13 / 順単于(助)11 / 順単于(登)11-12 / 須卜単于18-21

北匈奴

蒲奴単于46-? / 優留単于?-87 / 北単于88-? / 於除鞬単于91-93

南匈奴
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