マヌエル・マティアス

この名前は、ポルトガル語圏の人名慣習に従っています。第一姓(母方の姓)はゴニーリョ、第二姓(父方の姓)はマティアスです。

マヌエル・マティアスManuel Fernando Gonilho Matias1962年3月30日-)は、ポルトガルマラソン選手1996年アトランタオリンピック同国男子マラソン代表。勝負強さに定評がある。170cm、61kg。

来歴

スペイン国境に近いベージャに生まれ、父と大工をしていた。元はトラック競技の長距離走選手だったが、1988年にマラソンに転向。ポルトガルマラソンクラブに所属し、リスボンに自宅を構えた。転向後すぐの1988年5月パリマラソンで優勝し、カルロス・ロペスの再来と言われた。1989年は、ロンドンマラソンで自身初の2時間10分を切る2時間9分43秒で4位となる[1]。同年12月の福岡国際マラソンでは、エチオピアのアベベ・メコネン、ソ連のラビル・カシャポフとの三つ巴の争いとなった。36kmの給水でマティアスとカシャポフが抜け出し、ゴール手前1,100mでカシャポフが右腹をおさえながらもスパートし、マティアスに20m差を付けて競技場に入った。そして残り100mでマティアスが猛然とスパート、ゴール手前20mで並びカシャポフをかわして優勝した。カシャポフはうっかり気を抜いたと述べ、マティアスは残り2kmで勝てる気があったと述べた[2]1990年はパリマラソンで3位。福岡国際マラソンでは、33kmすぎに左足付け根を痛め6位[3]1991年の福岡国際マラソンは13位だった。しかし1994年3月のソウル国際マラソンで金完基を1秒差で振り切って優勝、復活を果たした。同年12月の福岡国際マラソンでは、ジュマ・イカンガーの一番弟子と言われたタンザニアのボアイ・アコナイに5秒差2位。タイムは2時間9分50秒で、「最後は足が動かなかった。だが、2時間10分を切ったことは良い[4]」と述べた。その後は、1996年のアトランタオリンピックのポルトガル代表となったが、2時間20分58秒の46位、1999年東京国際マラソンでも2時間18分19秒の14位と精彩を欠いた。

主な成績

  • 1988年 - パリマラソン(2時間13分53秒、優勝)
  • 1989年 - ロンドンマラソン(2時間9分43秒、4位)
  • 1989年 - 福岡国際マラソン(2時間12分54秒、優勝)
  • 1990年 - 福岡国際マラソン(2時間14分55秒、6位)
  • 1991年 - 福岡国際マラソン(2時間14分17秒、13位)
  • 1994年 - 福岡国際マラソン(2時間9分50秒、2位)
  • 1996年 - アトランタ五輪(2時間20分58秒、46位)
  • 1999年 - 東京国際マラソン(2時間18分19秒、14位)

出典

  1. ^ 朝日新聞東京本社版1989年12月4日付朝刊3面
  2. ^ 朝日新聞東京本社版1989年12月4日付朝刊25面
  3. ^ 朝日新聞東京本社版1990年12月3日付朝刊25面
  4. ^ 朝日新聞東京本社版1994年12月5日付朝刊20面
日本の旗日本陸上競技選手権大会 男子マラソン優勝者
1910年代
1920年代
  • 20 後藤長一
  • 21 下村広次
  • 22 西田長次郎
  • 23 松岡正夫
  • 25 丸三郎
  • 26 山内政夫
  • 27 高橋清二
  • 28 山田兼松
  • 29 楠好蔵
1930年代
1940年代
1950年代
  • 50 野田義一
  • 51 篠崎清
  • 52 橋本博
  • 53 廣島庫夫
  • 54 高橋芳勝
  • 55 フィンランドの旗ヴェイッコ・カルヴォーネン(英語版)
  • 56 山田敬蔵
  • 57 堀之内澄雄
  • 58 堀之内澄雄
  • 59 越川泰男
1960年代
1970年代
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1990年代
2000年代
2010年代
2020年代
  • *は大会記録
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